ある日、仕事から帰ると、家が静かだ。妻の荷物と子供の荷物が消えている。テーブルの上には一枚のメモ。「しばらく実家に帰ります」。数週間後、家庭裁判所から封筒が届く。婚姻費用分担請求調停の申立書だ。
出て行ったのは妻だ。お前は追い出していないし、浮気もしていない。それでも、妻と子の生活費として、毎月十数万円を払えと言われる。しかも、離婚が成立するまで、ずっとだ。妻が離婚に応じず、条件で粘れば、支払いは何年も続く。住んでいない妻の生活費を払いながら、自分はワンルームでカップ麺をすする。それが、別居した既婚男性の現実だ。
この記事では、婚姻費用の仕組み、年収別の相場、いつから・いつまで払うのか、そして払いたくない男が知っておくべきことを解説する。結婚とは、別居されても金を払い続ける契約だ。
この記事の結論
- 婚姻費用は別居中の妻と子の生活費。出て行ったのが妻でも、夫は払う
- 年収600万円・妻100万円なら、子2人で月約12.9万円、子なしでも月約8.2万円
- 婚姻費用は養育費より高い。妻の生活費まで含まれるからだ
- 支払いは離婚成立まで続く。調停の約4割は半年を超える
- 払わなければ給料を差し押さえられる。避ける方法は、結婚しないことだけ
婚姻費用とは:夫婦である限り続く生活費の分担
婚姻費用とは、夫婦と未成熟の子供が、収入や資産に見合った生活をするために必要な費用のことだ。民法760条は、「夫婦は、その資産、収入その他一切の事情を考慮して、婚姻から生ずる費用を分担する」と定めている。
同居している間は、家計を一つにしているので問題にならない。問題になるのは別居したときだ。別居しても、離婚が成立するまでは法律上の夫婦であり、生活を支え合う義務(生活保持義務)が続く。そのため、収入の多い側(多くは夫)が、少ない側(多くは妻)に、生活費を支払うことになる。
| 項目 | 婚姻費用 | 養育費 |
|---|---|---|
| 支払う時期 | 別居中(離婚が成立するまで) | 離婚した後 |
| 含まれるもの | 妻(配偶者)の生活費+子供の生活費 | 子供の生活費だけ |
| 子供がいない場合 | 妻の生活費として発生する | 発生しない |
| 根拠 | 民法760条(婚姻費用の分担) | 民法766条(子の監護に関する事項)など |
注目してほしいのは、子供がいなくても婚姻費用は発生することだ。妻に収入がないか少なければ、妻の生活費だけでも毎月数万円から十数万円を払うことになる。
年収別の婚姻費用の相場
家庭裁判所は、養育費と同じく婚姻費用についても算定表を公表している。その基になっている標準算定方式で、夫(会社員)の年収別に婚姻費用を計算した。妻の年収は100万円(パート)とする。
夫の年収別・婚姻費用の月額(妻の年収100万円)
Fig. 01| 夫の年収 | 子なし(妻0円) | 子なし(妻100万) | 子1人(妻100万) | 子2人(妻100万) |
|---|---|---|---|---|
| 400万円 | 約7.0万円 | 約4.9万円 | 約7.1万円 | 約8.4万円 |
| 500万円 | 約8.8万円 | 約6.7万円 | 約9.2万円 | 約10.8万円 |
| 600万円 | 約10.2万円 | 約8.2万円 | 約11.1万円 | 約12.9万円 |
| 800万円 | 約13.3万円 | 約11.2万円 | 約14.9万円 | 約17.2万円 |
| 1,000万円 | 約16.7万円 | 約14.6万円 | 約19.0万円 | 約21.8万円 |
年収800万円で専業主婦の妻が出て行けば、子供がいなくても月約13万円。子供が2人いて妻がパートなら月約17万円だ。夫の手取りが月約50万円なら、その3分の1以上が、住んでいない家族の生活費に消える。
婚姻費用は、養育費より高い
婚姻費用には妻自身の生活費が含まれるため、同じ条件でも養育費より高くなる。年収600万円・妻の年収100万円で比べてみよう。
婚姻費用と養育費の比較(夫の年収600万円・妻100万円)
Fig. 02子供2人の場合、婚姻費用は月約12.9万円、離婚後の養育費は月約9.4万円。別居中の方が、月3.5万円も多く払うことになる。これが、婚姻費用が「離婚を長引かせる武器」になる理由だ。
婚姻費用が、離婚を長引かせる理由
受け取る側から見ると、婚姻費用は養育費より高い。だから、離婚を急ぐ理由がない。むしろ、離婚の条件で粘るほど、高い婚姻費用を長く受け取れる。
- 夫が離婚を急ぐと、条件で譲歩を迫られる:「早く離婚したいなら、財産分与を多めに」「慰謝料を上乗せして」と交渉の材料にされる
- 妻が離婚に応じなければ、支払いは続く:離婚は、相手が同意しない限り、調停と裁判を経なければ成立しない。不貞や暴力などの離婚原因がなければ、裁判でも簡単には認められない
- 別居期間が長くなるほど、総額が膨らむ:月13万円なら、1年で約156万円、3年で約468万円
家庭裁判所の司法統計(令和6年)によると、婚姻関係事件(夫婦関係の調整や婚姻費用分担などの調停・審判)5万8,452件のうち、審理期間が6か月を超えたものは約42%、1年を超えたものは約13%だった。調停が不成立になって離婚訴訟に進めば、さらに1年以上かかることも珍しくない。
婚姻関係事件の審理期間(令和6年・全家庭裁判所)
Fig. 03円満なのは、今のところ、だろ。別居を切り出すのはお前じゃない。妻が実家に帰り、弁護士に相談し、調停を申し立てた瞬間から、お前の給料の3割は自動的に妻の口座へ流れ始める。お前が何も悪いことをしていなくても、だ。
別居期間別の支払総額
婚姻費用の総額は、別居がどれだけ続くかで決まる。夫の年収別に、別居期間ごとの総額を計算してみた(妻の年収100万円・子2人・14歳以下)。
| 夫の年収 | 月額 | 6か月 | 1年 | 2年 | 3年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 500万円 | 約10.8万円 | 約65万円 | 約130万円 | 約259万円 | 約389万円 |
| 600万円 | 約12.9万円 | 約77万円 | 約155万円 | 約310万円 | 約464万円 |
| 800万円 | 約17.2万円 | 約103万円 | 約206万円 | 約413万円 | 約619万円 |
| 1,000万円 | 約21.8万円 | 約131万円 | 約262万円 | 約523万円 | 約785万円 |
年収800万円の男が3年別居すれば、婚姻費用だけで約620万円。これに弁護士費用、自分の家賃、二重の生活費が加わる。そして離婚が成立すれば、今度は財産分与と養育費が待っている。婚姻費用は、離婚という長いトンネルの入口で払う通行料にすぎない。
別居から離婚成立までの流れ
別居から離婚成立まで、典型的にはこんな流れをたどる。どの段階でも、婚姻費用の支払いは続いている。
| 段階 | 起きること | 婚姻費用 |
|---|---|---|
| 別居 | 妻が子を連れて実家や賃貸に移る | 請求されれば、ここから発生 |
| 婚姻費用の調停 | 妻が婚姻費用分担請求の調停を申し立てる。不成立なら審判 | 申立ての月にさかのぼって金額が決まる |
| 離婚の協議・調停 | 財産分与、親権、養育費、慰謝料の条件を話し合う | 支払いが続く |
| 離婚訴訟 | 調停で合意できなければ、離婚を求める裁判を起こす | 判決が確定するまで続く |
| 離婚成立 | 協議離婚・調停離婚・裁判離婚 | 終了。養育費の支払いに切り替わる |
この流れの主導権は、多くの場合、子供を連れて出て行った側が握っている。子供と暮らす側は親権の争いで有利になりやすく、婚姻費用を受け取りながら、じっくり条件を交渉できるからだ。
いつから、いつまで払うのか
| 項目 | 実務の扱い |
|---|---|
| いつから | 請求した時点から。多くは調停を申し立てた月から。それ以前の分をさかのぼるのは原則認められにくい |
| いつまで | 離婚が成立するか、別居をやめて同居を再開するまで |
| 未払いがある場合 | 調停や審判で、請求時から決定までの未払い分をまとめて払うよう命じられることが多い |
注意すべきは、調停で金額が決まるまでに数か月かかっても、申し立てた月にさかのぼって支払い義務が発生することだ。調停が長引けば長引くほど、決まった瞬間にまとまった未払い分を請求される。
妻が浮気して出て行った場合は?
「妻が浮気して出て行ったのに、妻の生活費まで払うのか」。これには、ある程度の救いがある。別居の原因が主に妻にある場合(不貞をして自ら家を出たなど)、妻は「有責配偶者」として扱われ、妻自身の生活費の分は認められず、子供の生活費の分だけになることがある。
ただし、これを主張するには、妻の不貞を証明する証拠が必要だ。証拠がなければ、通常どおりの婚姻費用を払うことになる。そして、子供の分は、別居の原因が誰にあっても払わなければならない。
住宅ローンを払っている場合
夫が家を出て、妻と子が夫名義の家に住み続けるケースは多い。この場合、夫は自分が住んでいない家の住宅ローンと、妻と子の婚姻費用を、同時に払うことになる。さらに自分の家賃もかかる。
実務では、夫が妻側の住居費を負担している分を考慮して、婚姻費用を一定程度減らす調整が行われることがある。だが、ローンの全額が差し引かれるわけではない。ローンには資産形成の側面もあるとされるからだ。
| 項目 | 金額 |
|---|---|
| 手取り(年収600万円) | 約38.5万円 |
| 妻と子が住む家の住宅ローン | 約12万円 |
| 婚姻費用(住居費の調整後の例) | 約8万円 |
| 自分のワンルームの家賃 | 約7万円 |
| 自分の生活費 | 約8万円 |
| 残る金 | 約3.5万円 |
家賃とローンを二重に払い、婚姻費用も払う。手取り38万円の男の手元に残るのは、月3万円台だ。弁護士費用を払えば、赤字になる。これが、別居が長引いた既婚男性の家計の現実だ。
払いたくない場合は、どうなるか
「出て行った妻に金を払う気はない」。気持ちはわかる。だが、支払いを拒否するとこうなる。
- 調停を申し立てられる妻が家庭裁判所に婚姻費用分担請求の調停を申し立てる。話し合いがまとまらなければ、自動的に審判に移り、裁判官が金額を決める。
- 審判で金額が決まる算定表を基に、収入の資料から金額が決められる。収入の資料を出さなくても、賃金センサスなどから推計される。
- 給料を差し押さえられる審判や調停調書に基づいて、給料を差し押さえられる。婚姻費用は養育費と同じく、手取りの2分の1まで差し押さえが可能で、勤務先にも通知が行く。
つまり、払いたくないという選択肢は、事実上ない。できるのは、算定表の範囲で妥当な金額になるよう主張すること、住居費の負担を差し引くよう求めること、そして離婚の条件を早くまとめて、婚姻費用より安い養育費に切り替えることくらいだ。
婚姻費用のリスクがゼロの生き方
婚姻費用は、婚姻届を出した瞬間から発生しうる義務だ。どれだけ誠実に生きても、相手が別居を選べば、支払いは始まる。
独身の男
- 婚姻費用のリスク:ゼロ
- 家に帰れば、自分だけの城がある
- 給料は全額、自分のために使える
- 弁護士費用も調停も無縁
別居された既婚男性
- 年収600万円・子2人なら月約12.9万円
- 住んでいない家のローンと自分の家賃を二重払い
- 離婚が成立するまで、何年でも続く
- 払わなければ給料の差し押さえ
まとめ:結婚とは、別居されても払い続ける契約だ
婚姻費用は、別居中の妻と子の生活費だ。出て行ったのが妻でも、夫婦である限り、夫は払う。年収600万円・妻の年収100万円なら、子供2人で月約12.9万円、子供がいなくても月約8.2万円。妻の生活費が含まれるため、離婚後の養育費より高い。
支払いは、請求した月から離婚が成立するまで続く。家庭裁判所の婚姻関係事件の約4割は審理が半年を超え、訴訟になればさらに長引く。払わなければ給料を差し押さえられ、住宅ローンを抱えていれば二重払いになる。
婚姻費用のリスクをゼロにする方法は、婚姻届を出さないことだけだ。末代で何が悪い。お前の給料は、お前の生活のためにある。
よくある質問
婚姻費用とは何ですか?
夫婦と未成熟の子供が、その収入や資産に見合った生活をするための費用のことだ。民法760条で、夫婦はその資産や収入に応じて婚姻費用を分担すると定められている。別居した場合、収入の多い側が少ない側に、生活費として毎月支払うことになる。
婚姻費用の相場はいくらですか?
夫婦の年収と子供の人数・年齢で決まる。標準算定方式で計算すると、夫が年収600万円の会社員、妻が年収100万円の場合、子供なしで月約8.2万円、子供1人(14歳以下)で月約11.1万円、子供2人(14歳以下)で月約12.9万円が目安だ。
婚姻費用はいつからいつまで払いますか?
実務では、請求した時点(多くは調停を申し立てた月)から、離婚が成立するか、別居をやめて同居を再開するまで支払う。請求する前の分をさかのぼって請求することは、原則として認められにくい。
妻が勝手に出て行っても婚姻費用は払うのですか?
原則として払う。夫婦である限り、生活を支え合う義務があるからだ。ただし、妻が不貞をして自ら別居したなど、別居の原因が主に妻にある場合は、妻自身の生活費の分は認められず、子供の生活費の分だけになることがある。
婚姻費用を払いたくない場合はどうすればいいですか?
支払いを拒否しても、調停や審判で金額が決まれば、給料を差し押さえられる。払いたくないなら、離婚の条件を早く固めて離婚を成立させるか、住宅ローンなど妻側の住居費を負担している分を差し引くよう主張するといった対処になる。根本的に避ける方法は、結婚しないことだけだ。
出典・参考資料
- 民法第760条(婚姻費用の分担)、第766条(離婚後の子の監護に関する事項の定め等)
- 裁判所「平成30年度司法研究(養育費、婚姻費用の算定に関する実証的研究)の報告について」(養育費・婚姻費用算定表、令和元年12月)
- 最高裁判所事務総局「令和6年 司法統計年報 3 家事編」第16表
- 民事執行法第151条の2、第152条(扶養義務等に係る定期金債権を請求する場合の特例、差押禁止債権の範囲)
- 裁判所「婚姻費用の分担請求調停」